やり甲斐もなく、成果のための成果を求める研究の日々――それに、研究員番号386――ミハルはすっかり飽きていた。
 ここ――<地下研究所>の他の<研究者>たちは、各々が目指す未来の実現に向けて精力的な試行錯誤を繰り返している。
 だが、ミハルにそんな情熱はない。
 かつては、あった。
 人類の歴史を解き明かし、それを未来へと活かすこと。
 そう、彼女の志望は考古学であった。
 しかし。
 遺跡の調査には危険が伴う。
 未開の地に踏み入るためには、それに立ち向かうための体格が必要だ。
 しかしながら、彼女は人より疲れやすい。
 病気でも疾患でもなく、個性として。
 だがそれは、<地下研究所>では、大した欠点とならない。
 問われるのは知的な生産活動だけなのだから。
 とはいえ、その夢だけは頓挫せざるを得なかった。
 そう思うと……オスの体が少しだけ羨ましい。
「ん? ミハル、また風呂か」
 浴室に響くのは何十年も聞き馴染んできた深い声。研究員番号915――クイゴのものだ。
「そっちもそっちで……ふぁー、またトレーニングかいねぇ」
 共同浴場の湯船に浸かりながら、ミハルは背中を反らして後ろの方を仰ぎ見る。頭は浸さないつもりだったが……ふわふわした後ろ髪はしっとりと濡れそぼってしまった。
 そう長く伸ばしてもないし、このくらいなら放っておいても乾くかなぁ……? とあまり気にせず、ミハルは目に映る二本の脚に見惚れていた。あんな力強い下腿三頭筋かたいさんとうきんがあれば、どんな険しい山道とて乗り越えていけるに違いない。一方、自分のふくらはぎは全身に血流を押し出すことすら怠け気味だ。生まれつきのことといえども――ミハルは心の中で、自分の足を叱咤する。いくらデスクワークだからって、もう少し頑張れんのかねぇ、と。
 運動を終えたばかりの彼は、シャワーで汗を流しているのだろう。床を打つ水音に耳を傾けながら、ミハルは見慣れた天井をぼんやりと眺める。その色は清潔感の白。湯気の色も白。そんな白さの中で、彼女の白い肌は溶け込んでしまいそうだ。
 一方のクイゴは一年の半分以上を野外での発掘に費やしていることもあり、陽に酷使された皮膚はしっかり色濃く焼けている。健康に良いとはいい難いが、そこに刻まれた日々を思うと……ミハルは嫉妬を禁じ得ない。
 <地下研究所>では時代を先駆ける研究が営まれている。とはいえ、別段文明が急発展しているわけではない。タイルに水を張れば滑りやすくなるし、湯船とてそのままにしておけばすぐ冷める。これは、ある種の怠惰でもあった。彼らは未知の研究ばかりに没頭し、その成果を日常生活へ反映させることに興味を持たない。ゆえに、技術レベルは地下に研究施設を作ったところ時点で止まっており、それ以降は最先端の知識を<地上>にもたらし、彼らの創意工夫を逆輸入している。
 なので、全身の老廃物を一瞬にして洗い流す装置などは存在ない。それなりの時間を掛けて身綺麗にしたクイゴがやって来て、彼女の隣にジャブジャブと踏み込んできた。胸まで浸かって気持ちよさそうに長い息を吐く彼の肩に、ミハルは思わず魅入ってしまう。
「やぁやぁ、私にもそんだけ丈夫な骨格があればねぇ」
 ミハルとクイゴは、<アカデミー>時代からの同期だった。共に古代へと思いを馳せ、過去の空白をすべて埋め尽くしてやろうと語り合った仲である。
 が、その道に進めたのはクイゴのみ。ミハルは紆余曲折の末に生物学を専攻している。
 もちろん、この研究所では雌雄によって進路を選別することはない。メスの考古学者とて、数は少ないがいることはいる。が、筋力体力を要するため、必然的に担う割合はオスが多い。そしてミハルには、そのメスの壁を乗り越えることができなかった。
 彼女も彼女なりに懸命な努力は積み重ねてみたものの――どうしても人並みの筋力すら身につかない。
 だが、その際に人体の仕組みに詳しくなったことで、彼女に新たな道は拓けた。
 それでも、納得はしていない。それしかないから、それを活かしているだけ。未練だってタラタラである。
 それに引き換え、クイゴの何と清々しいことか。
「こんな筋肉、<研究所>の中では無用の長物だけどなっ!」
 ニカっと笑うクイゴの眉は太い。それに対して、ミハルは目元からして下がり気味である。顔つきなど個人識別の役割しか持たないとはいえ、表情ひとつ取っても彼女の気分は負け戦だ。
「私は<研究所>の外で活かせる筋肉が欲しかったんだよぉ」
 湯の中でワシリと彼の足の付根を掴んでみたが、その太さはまるで巨木の幹。それに引き換え、自分の身体の何と貧相なことか。
 ミハルにされたように、クイゴもまた彼女の足の付根へ。その握力は、肉を引きちぎり骨までへし折りそうだ。が、それこそミハルの憧れであり、その力強さを感じることは嫌いではない。
 実験を意識せず異性の身体に触れることもあまりないので、この珍しい機会に生物学者として興味も湧いてきた。そのまま股間へと指を移すと、メスには存在しない『陰茎』という器官がある。主に、排泄時に用いられるものだ。
 しかし、それと対となっている――
「ふぅぅん、やっぱり『陰嚢』はないんだねぇ」
 学術書に明記されているはずのものがそこにはない。彼らの使命は学問や実験によって人類全体に貢献すること。子を産んだり育んだりすることは、彼らの研究に何ら寄与しない。
 そのような役割は<地上>にて行われている――とミハルたちは聞いている。彼女は遺伝子検査によって選ばれ、生誕と同時に<研究所>へと送られてきた。そのため、出生の地に関する記憶は持ち合わせていない。そしてそれは、クイゴもまた同じこと。
「この、乳房とやらもな」
 そこに肉の塊があるのなら、緩衝の役にでも立つのだろうか、とクイゴは胸を軽くノックしてみる。だが、薄く健康的な脂肪はフニフニと湯に漂うだけで、肋骨を守るだけの強度はなさそうだ。もちろん、骨格を支えることもできず、ミハルにとっては関心の埒外らちがいであった。
「……はぁ、私ゃ乳房よりも大胸筋に発達してもらいたかったよぉ」
 ぼやきながら、ミハルはペタリとオスの胸に手を当てる。メスと違い、指が肉に埋まることはない。力強い繊維質で編まれたオスの肉は様々な環境を打破していけることだろう。
 クイゴは、彼女があまりに自分の胸に固執するので、同じようにムニムニと揉みしだいてみる。その中身はスカスカで、反発的な躍動は感じられない。
 長い付き合いだけに、ミハルが何を欲していたかよく知っている。それだけに、同情は禁じ得ない。
「こればっかりはな。如何ともし難かろうよ」
「そうさねぇ。如何ともし難いわぁ」
 この、メス特有の脂肪を何か有効活用できないか、とクイゴは考える。芸術家連中はこの曲線美に執着したりするようだが、自分にそのあたりのことはよくわからない。
 瑣末事ではあるのだが、単純な膨らみ以外にも違いはある。
 本当に、瑣末事ではあるのだが。
「子宮はなくとも、乳首は膨張するんだな」
 先程からミハルによって撫で回されている自分の乳首など、まるで肉の筋に紛れてしまいそうなほどに存在感がない。一方、彼女の胸の先端のソレは、軽く撫でただけで判るほどしっかりとそこにある。
 子供を育てる際の授乳に用いられる、と教養としては知っているが、彼らにとって育児など何の関心もない。陰嚢と異なり切除する必要はないとはいえ、陰茎と同じく無駄な器官のように思えた。
「まぁねぇ。あー、でもあんま強くしちゃダメだよぉ。わりと神経集まってるから」
「それは、陰茎と同じようなもんか?」
「んー、多分、そんなもん」
 自分にない器官には当人しかわからない事情も多い。お互い好奇心のままについ弄り回していたが、やりすぎは良くなさそうだ。それを認識したから、ふたりは異性の身体から手を離す。そして、漂う湯気を眺めながら、人間の肉体について思いを馳せていた。
 彼らにとって、生殖とは――理屈は知っているものの、行動そのものについて身近なものとは感じられない。それでも、こうして雌雄の身体の構造の違いを目の当たりにすると、それは確かにあるのだと実感させられる。尾骨――猿だった頃の尻尾の名残などではなく、実際に機能するものとして。
 必要なものとして。
 但し、自分たちには不要であると取り除かれるものとして。
「私ってば、何のためにメスなんだろうねぇ……」
 どうして雌雄の身体に違いがあるのか。
 むしろ、どうして雌雄などに分ける必要があるのか。
 種としての生存戦略――それは、解る。
 だが、その所為で――せめて、オスの身体に生まれていれば――男性ホルモンを自然に受け入れられる生体ならば、まだ望みは続いていたかもしれない。
 だが仮に、いまの身体にそのような例外措置を施したとして――リスクと可能性を天秤にかけたとき、彼女は未来を諦めた。
 ゆえに思う。どうして自分はメスなのか、と。
 メスであることに、なんのメリットがあるのか、と。
 研究室で実験データと向き合っていく限りにおいては、その違いはない。
 だが、彼女の夢は、その外側にあったのだから――
 彼女の苦悩を、クイゴもよく知っている。しかし、彼は生まれたときからオスであり、メスの苦悩を体感したことはない。
 そのため、どうしても他人事となる。
「オスやメスの必要性ってやつは、むしろお前らの専門分野じゃないか?」
 歴史学においては、過去人の性別など情報のひとつに過ぎない。生物学においても、情報のひとつではあるのだが……
「……ほんと、肉体が雌雄共通ならどんなに楽だったか、ってねぇ」
 彼女らの研究は、生殖機能を失った<地下研究所>の人々のためだけでなく、<地上>の繁栄にも当然向けられている。だからこそ、その事情はより悩ましい。自分らには関係のないところで、研究が行き詰まるということは。
「でも、性に関する研究も進んでいるんだろ?」
 そんなに不愉快であるのなら、それを取り除く研究も行われていそうなものではある。が、やはり人の行動原理はそのような形では働かない。障害はあくまで障害であり、別の目的を阻害するものである。その障害の除去が目的となっては、本末転倒も甚だしい。
「そんな風変わりなことを頑張ってるのはぁ……846ヤシロ教授くらい、じゃないかなぁ」
 しかも、彼の研究は性差をなくすことではなく、性差を活かすところにあるという。絶滅危惧種の繁殖に努めるのならともかく、その対象が人間とあっては、学会の間でもあまり理解はされていない。が、一方――特に、<地上>においては極めて有用であり、数々の実績を残している。
 異端であるがゆえに孤高――それが、ヤシロ教授の評価だった。
「メスに行き詰まったのなら、相談でもしてみたらどうだ?」
 これ以上は自分にはわからない。ゆえに、ここらで雑談休憩は打ち切り、クイゴは湯船から腰を上げた。
「やれやれ、そんなん、とっくに行き詰まってるよぉ」
 続いて彼女も立ち上がろうとするが――
「あたっ、あたたたた……」
 ミハルはザブンと逆戻り。
「ん? どうした?」
腓腹筋ひふくきんが……筋痙攣すじけいれん……」
 この症状を、<地上>の者ならば、“こむら返り”と呼ぶだろう。何でもないところで、ミハルはこの症状をよく起こす。
 ゆえに、周囲の反応も慣れたものだ。
「ああ、またいつものか。ゆっくり上がっておけよ。のぼせないようにな」
 彼は医療担当ではないし、あまりに遅くなるようなら同じ研究室の者が対応するだろう。クイゴにとって、ここですべきことは何もない。素っ気なく去っていく幼馴染を見送りながら、ミハルは悲しいまでの無力さを感じていた。どうして自分の両脚は立派に育ってくれなかったのだろう。これは、雌雄の差だけではない。同性のソレより、ミハルの足は圧倒的に弱々しいのだから。
「ぅぁー……あーあ……」
 浴槽の縁に頭を引っ掛け、彼女はひとりぼんやり照明を眺める。どんなに手を伸ばしても、届かないものはあるのだな、と。

 のぼせ寸前の頭をふらつかせながら、ミハルは何とか脱衣所へと辿り着く。当然ながら、クイゴはとっくに部屋へと戻っており、もういない。
 代わりに、そこにいたのは――
「ん、あれぇ……こんなところでどうしたのぉ……?」
 研究員番号42――ヨニである。ミハルとは同じ研究室に所属しており、今日はこの後部屋でミーティングを行う予定のはずだ。しかし――このとおり、ミハルは貧弱である。たまにのぼせて倒れたりするので、あまりにも遅い場合は誰かが様子を見に来ることもあった。とはいえ、今日はそこまでのんびりしていたわけではないのだけれど。
「ん、あぁ、やっと出たかい、リーダー。少し見て欲しいものがあってね」
 鏡の前の椅子に座っているヨニは、ミハルに向けて手招きしている。その風貌は入浴前というより寝起きに近い。着ているジャージを脱ぐ様子もなく、眠そうな目蓋に寝癖も目立つ。だが、何よりも気になるのは、その頬に塗りつけている軟膏だ。この<研究所>に肌の潤いを気にするような者は先ずいない。ゆえに、ミハルは真っ先に実験行為だと思った。何らかの新薬であれば、研究者として興味は尽きない。ミハルは服を着るのも忘れて、ヨニのところへ歩み寄る。
「それぇ、ヨニのぉ?」
 未だ研究中であれば、薬瓶や試験管にて保管されるのが常だ。そのような白くて丸い軟膏容器に入っているということは――何らかの形となった完成品のはずである。確かにそれは完成品ではあったが、作ったのは使っている本人ではない。
「いやー……406フォールんトコでできたんだってさ。研究の過程で、偶然」
「へぇ」
 どうやら、知り合いの成果物のようだ。
「それが、<地上>の需要にマッチしたようでねぇ。現地の製薬会社からオファーもらって量産体制に入ってるって。……いる?」
 ヨニは容器の蓋をパコっと閉じると、ミハルの方へと差し出す。が、そんなことをされてもあまり乗り気ではない。
「それ、効くのぉ?」
 やっぱりか、と言いたげに、ヨニは容器をポケットに突っ込んだ。知り合いからもらったので無下にはできないが、ヨニ自身も興味はない。
「画期的な効果があるなら、もう論文が出回ってるんじゃないかなぁ」
「だよねぇ」
 つまりは、気持ち程度である。そんなものをありがたがる<地上>という世界は<研究員>には理解しがたい。
「でも、物凄い支給額が出たらしく、記念にひとつって押し付けられちゃってねぇ」
 各研究室には、その人員に応じて定額の研究費が決められている。時折、目を見張るような成果を上げた際には特別報奨金が用意されることもあるが、基本的には変わらない。
 だが――<地上>の資本家に認められれば話は別だ。
「物凄い額ってぇ……どんなもん?」
「電子マイクロ検出器、新調したってさ」」
「えぇっ、ズルぅイ! うちなんて二世代前ので頑張ってるのにぃ」
 とはいえ、良いことばかりではないらしい。
「その代償として、部屋全体がそれの開発ばっかりやらされてるみたいだよ」
「……やれやれ……ついでの成果物だったはずなのにねぇ……」
 基本的に、ここの研究員たちは衣食住に関しては不安を抱えることなく研究に没頭している。とはいえ、さすがに予算も無制限ではない。今回の波に乗り、今後の研究費をまとめて稼いでおこう、と考えるのも当然だ。しかし、やはり研究者としての不満はあるだろう。
「こんなものを欲しがるくらいなら、もっと有用そうな成果物もあるだろうに」
 自分たちの主目的で金になるならそれがいい。だが、<地上>が求めるものはいつも下らないものばかりだ。しかし、ミハルはそのこと自体に興味を抱く。
「どうして<地上>はそうなんだろうねぇ……」
「さぁ。そんなことは私たちには関係ないことだよ」
 この<研究所>ではヨニのように、<地上>は後進的で馬鹿げている、と考える者が多い。だがミハルは――当然、後進的で馬鹿げているとは考えながらも、その理由が気になっていた。どのような歴史を積み重ねて、どうしてそのような価値観が形成されたのかを。深く、遠い昔の名残に触れることは、どんなに楽しいことだろうか。
「あーあ、私も<地上>からお声が掛かればねぇ……」
 未来ばかり見据える<研究所>と違い、過去に触れることもできるだろう。
「おやおや、そんなこと言っていいのかなぁ?」
「まー……私の研究なんて、そんな大したもんでもないさねぇ」
 実のところ、ミハルにとって自分の研究は惰性に過ぎない。別段達成したいほどでもないが、あまり成果を出さないと研究者としての資質を疑われてしまう。なので、そこそこに進捗は報告してきた。が……一攫千金の機会に恵まれれば、迷わずそちらへと流されるだろう。だが、ヨニが指摘したのはそこではなかった。
「リーダーの研究が難航しているのは私も知ってるけどね。そのために、これなんて……どうだい?」
 そういえば、部屋に戻れば予算配分を決めるミーティングである。ヨニが差し出すタブレット端末には、きっとお高い機材が映っているのだろう。
 と、思ったが。
「……ナニコレぇ……マジモン?」
「あのヤシロ教授だからねぇ。マジじゃない?」
 ヨニがミハルに提示したのは、とある論文。そのデータリストの一部だった。
 オスでもなく、メスでもない無性のモルモット――実験体として、こんなに興味深いものはない。その生成に成功したのは――性に関する第一人者・ヤシロ教授であった。
「先方に予算回して、こっちにもコイツを譲ってもらう……ってのはどうだい? 絶対、これまでにない反応が出るよー」
「んーんー……ん~~~!」
 ミハルは思わず頭を抱える。ここで予想外の結果が検出されれば、行き詰まっていた研究の突破口となるかもしれない。それは、彼女自身に限らず、研究室全体――いや、学問全体に寄与することだろう。
 しかし――
 ヤシロ教授は、どことなく取っつきにくい節があった。何しろ、一般的な研究室に所属することなく、独りで黙々と周囲から理解されぬ研究を続けているのである。もっとも、他者が興味を示さない内容ゆえに、独りで進めているのだろうが。
 ゆえに、リーダーとして難色を示すのは無理もない。だからこそヨニは、他のメンバーに対して抜け駆けする形で研究室を抜け出してきたのである。責任者に同意を得られれば、他の反対者に対しても丸め込みやすい。そのための資料は、この携帯端末に色々と揃えてある。しかし、改めて追撃を打つ必要はなかった。
「んー……わかったぁ。会議で審を取ってみようかねぇ」
「おっ、話が早くて助かるよ」
 ヤシロ教授については、個人的にも用事がある。自分の相談事にも乗ってもらう口実としては良い機会かもしれない。そして何より――このままでは湯冷めしてしまう。
「それじゃあ、ミーティングではよろしく。風邪とか引かないよう、温かくしてきてね」
 やはり、着替える前に引き止めたのは、決断を急がせるための策略だったらしい。合意だけ取り付けると、ヨニはさっさと脱衣所を出ていく。温かくしろと言われても……ミハルには着てきたいつもの服しかない。もう一度湯船に浸かる時間もないので、そのまま着衣を始める。教授が生成したという、無性モルモットのことを考えながら。
 生物は成長するに伴って、性別的特徴も顕著になってくる。だが、この無性モルモットは余計な変化が殆どないまま成体まで育ったらしい。ミハルはパット入りのタンクトップをかぶりながら……膨張した乳首なんて無駄だから切っちゃった方がいいのかねぇ、などと物騒なことを考えたりもした。一方、下半身に余計なものが付いていないのは良かったと思う。オスたちは座って排泄する際に、前に飛び出さないのだろうか。まあ、そこまで長い者もなかなかいないのだろう。
 彼女たちが日頃着用しているメリヤス編みの化学繊維は、その通気性の良さから<地上>では身体を動かす際に用いられているらしい。もっとも、<地下>で好んで肉体を鍛えようとするのはクイゴのように文明の外へと出る必要のある者だけだが。サイズごとに色が異なり、ミハルのものは少し小さめを示す緑色。時々他の人のと入れ替わることもあるが、サイズが同じならば気にする必要もあまりない。
 上着の合わせをファスナーで閉じ、白衣を羽織れば身支度完了。こんな些細な工程すらも面倒くさいので、たまに全裸に白衣でいいのではないか、と思うこともあるが……それに合わせた空調を設定すると、支障を来す研究もありそうだ。環境に合わせる努力も必要か、とミハルは自堕落な発想を一笑に付す。そして、こうしてエレベーターまで歩いていくことも仕方なく受け入れることにした。そこから先の位置エネルギーの蓄積については機械が代行してくれるとはいえ、そこまで移動することさえ、いまのミハルには面倒くさい。
 のぼせ気味なのか、湯冷めしたのか――気分を切り替えるための入浴のはずが、様々なことが積み重なり、余計なわだかまりを背負わされてしまった気がする。エレベーターの上昇すらも彼女の細い骨身に圧力を掛けてくるようだ。
 そして彼女は五階で降りる。共同浴場や食堂などの生体維持に関する施設は一八階。但し、その階数にはすべて『地下』という暗黙の接頭語が付く。ゆえに、上がるほどにその数値は減ってゆき、ゼロを超えた先が、<地上>と呼ばれる世界だ。そこへと通じる専用エレベーターに乗ることができる者は限られている。<地上>に多大な影響を及ぼすような地位を得た者か、クイゴのように<地上>を研究対象とする者か、もしくは――数は少ないが、<地上>で学問を積み、後天的に<研究員>として認められた者か。少なくとも、生まれながらの<研究員>は基本的にこの閉鎖空間内でその生涯を終える。
 だが、<研究員たち>はそれで満足だった。この<研究所>へ所属する条件――それは、延々と自分の研究に没頭できること。その素質を持つ者だけが、この地へ招かれていた。
 ゆえに――ミハルのように自分の知らない景色へ憧れを抱くのは例外中の例外。もっとも彼女の場合は、夢を引きずっているだけで……とはいえ、その諦めの悪さも<研究員>の資質のひとつではあるのだが。
 この建物から覗く窓の外には、同じような建物しか見えない。地下二五階となる最下層には地上にも似た平地が青々と広がってはいるが、すべては作り物。建設当時の<地上>を模したものに過ぎない。そもそも、この<研究所>は原則常昼。夜という概念が必要な研究者は、必要に応じて『惑星周期研究所』へと赴くのである。そこは、<地上>の太陽が及ぼす影響を再現することも可能であり、天体の自転に伴う変化が必要となる研究についてはそこで行われていた。しかし、何にせよ、すべては必要に応じた設定に過ぎない。
 それが便利であることは、ミハルも認めてはいる。無駄に<地下研究所>全体に対して<地上>の昼夜を再現せよ、とは思わない。
 つまりそれは、性分である。ありのままに積み重ねられてきた現実に、自分の手で触れてみたい、というだけの。そこに、研究者としての生産性はない。しかし、それは彼女の奥底に根付いていた。
 専攻する生物学を突き詰めていけば、いずれは生物の原初に辿り着けるだろう。しかし、彼女が目指したかったのはそこではない。実際にあった原初に触れ、それがどうして今の形に進化してきたのか――過程と、その原因。ミハルが求めていたのは、やはりそこだった。
 とはいえ、本人が望む形で天が才を託すとは限らない。筋肉の構成に関する新見解や、老化を防ぐ物質の発見などを経て、いつの間にやら研究室の人員を取りまとめる立場になっていた。本来、人員の管理に手間を取られ、自分の研究の時間が削がれるリーダー職は忌避されるものだが、この不本意な<研究員>には周囲ほどの熱意はない。ゆえに自ら買って出たところはある。
 そんなこんなで、ミハルはようやく自分の研究室へと戻ってきた。部屋の前でカードキーをかざし、扉を解錠して入ってみるも……中はガランと人気ひとけがない。時計を見れば、帰還予定時刻を五分ほど過ぎていた。メンバー内でのミーティングが入っていたので、皆は奥の会議室に移動済みなのだろう。そちらの方から、わざとらしい声が響いてきた。
「……それは二度風呂コースだね。知っているかい? 大浴場に一〇時間浸かることができれば、論文の提出を一年間免除されるという――」
 ガチャリ、と扉が開く音で、その演説は強制終了となる。
「はいはい、そんなら自分で挑戦してきなよぉ、169イルグ
 もちろんそんな制度はない。いつものウソ――本人はジョークと言い張っているが、虚実を入り混じられては、混乱の元だ。無益どころか有害にさえなりうる。それで、控えるようミハルはいつも注意しているが、改善する様子は見られない。逆に、周囲の方がそれに慣れつつあり、適宜聞き流している。
「リーダー遅いぞ! だから、アレほど五分前行動を心掛けるよう言っておいたんだぞ!」
 サブリーダーである研究員番号796――ナクムは、最初からイルグの戯言など歯牙にもかけてない。室長に向けて語気を強めているが、タレ目で釣り眉という風貌のため、怒っていてもどことなく愛嬌が感じられる。
「ごめんねぇ、今度から一〇分前行動を心掛けるよぉ」
 誰もリーダーが間に合うとは思っていないが、念のために間に合う前提で。それが、この研究室における際どいバランスでもあった。
 さて、今日の議題は現在進行中の研究に対する予算配分についてである。が、ミハルはヨニから頼まれていた件を真っ先に挙げた。資料は言い出した本人がそれなりに用意している。皆同様に強く関心を示し、基本的な賛同は得ることができた。
 が、こういうときに取り仕切るのは、リーダーよりも、自己主張の強いサブリーダーだったりする。
「相手はあのヤシロ教授だぞ? どんな要求があるかわかったもんじゃないぞ!」
 やはり、懸念材料がないこともない。果敢に眉を釣り上げジーっとヨニを睨むナクムの剣幕にミハルは少しだけヒヤヒヤさせられた。しかし、ヨニにとってはあくまで想定の範囲内である。
「だからねナクム、その許容点をこの会議で決めようってことなんだよ」
 各メンバーの動向――慎重派か、積極派か。ヤシロ教授に対して肯定的か、否定的か。そのあたりを考慮して、ヨニは味方についてくれそうな研究員番号860――ハロクドに意見を求める目線を送る。
「いいじゃんいいじゃん! ボクたち研究者だもん。先ずは何でも試してみないとねっ!」
 ふわふわとくせっ毛を揺らしてはしゃぐ様子に、ヨニは一先ず手応えを感じていた。しかし、ペシミストののあるイルグはつい冷やかしたくなってしまう。
「勇気と無謀は別物だろう。ヤシロ教授の研究を手伝った者の中には、その後、行方知れずになったケースもあるらしいじゃないか」
 噂だけなら、皆々小耳に挟んだことはある。が、研究者は自分の研究に関わりのないことはあまり気にしない。とはいえ、いざ関わりを持つとなると、途端に怖気づいてしまう。
 ゆえに、これには誰も何も言えない。理想的な反応に、イルグは得意そうにメガネを上げる。そして、次々と怪情報を披露し始めた。
「独りで回しているはずの個人研究室で、蠢く気配を複数感じたという話もある。その者たちの正体とは、生きたまま実験体とされて、教授の意のままに動く人形として今も――」
 ここまで胡散臭くなってくると、進行役を自認しているナクムには見逃せない。
「イルグ! 研究者なら、その根拠を示さなきゃダメだぞ!」
 どうやらサブリーダーは闇雲に反対しているのではなく、よく判らない相手を純粋に警戒しているだけのようだ。その判断に偏見はなく、現実をきちんと見据えている。ミハルは、自分の補佐を任せているナクムが誇らしく思えた。
 一方、虚構を見破られたイルグだが、そこに反省の色は見られない。
「ははは、勿論冗談だよ。ま、それだけ謎が多い人物ってことに違いはない」
 慣れた者なら、そんな話を真に受けることはないのだが、ここにいるのはベテランばかりではない。
 <アカデミー>――ミハルのように遺伝子検査によって才を見出された子供に最高の学習環境を提供するため、<地下研究所>にはそのための教育機関が設けられている。そこで学問を修め、論文を発し、ようやく卒業し、研究員番号218を与えられジーバと名乗るようになった新人にとっては、<研究所>はまだまだ未知の環境だ。
「で、で、でも……火のないところに煙は立たないッス……実は私、もっと怖い話も聞いたことあるッス……」
 必要以上に怯えているが、これにもまた根拠はないらしい。先程ナクムによる叱責があったばかりだけに、後輩はそれ以上語らず口を噤む。
「ともかく……ヤシロ教授は、<研究者>としては優秀だぞ。それについては間違いないぞ?」
 ならばどうするべきか――その先の、肝心なところが出てこない。そこが、ナクムの抜けているところでもある。そして、その脇を固めてくれるのは、研究員番号65――ムイツだ。
「それでは、研究者が欲するところは研究費と人材ですので、一先ずそこを詰めては如何でしょう?」
 <研究所>では、髪を切ることを面倒臭がる者が多い。その例に違わず、ムイツも伸びた前髪を頭の上でまとめていた。窓枠から覗くようなあどけない笑顔。それでいて核心に迫る一手を示してくることがナクムにはどうしても鼻につくらしい。サブリーダーとしての対抗心からか、すぐさまこの意見に食いついた。
「オっ、オレもそう言おうと思ってたんだぞ! でも、ムイツにお金の話はまだ早いぞ!」
 先日ムイツは、鳥の羽に含まれる成分が人骨に影響を与える論文を発表したばかりである。それで、ナクムは自分のサブリーダーとしての座が危ういのではないかと勝手に焦っているようだ。勿論ミハルは、ひとつの成果物でチーム内の役割を入れ替えたりすることはない。が、強いていうのなら、その行き過ぎた自己顕示欲が心配だった。
 一方のムイツにも、サブリーダーを任せられない理由がある。
「そうですね、私には荷が重いですから、先輩たちにお任せします。それに……その無性モルモット、私の研究には何ら寄与しそうにありませんし」
 在籍年数から考えれば、そろそろ中堅どころであるにも関わらず、どうにも新人気分が抜けていない。<研究者>としては優れた結果が期待できるが、チームを率いたり、他の研究室と当たるには、やはり押しが弱すぎる。だからこそ、ナクムとムイツを両輪として支え合ってくれたらいいな、とリーダーとしては密かに願っていた。
 しかしミハルが見るに、最終的に美味しいところを持っていくのは、いつもヨニな気がする。
「だからといって……まさか、反対はしないよねぇ? だって、先月はムイツのために――」
 もちろん、交渉カードは用意していた。が、それを相手に切らせるムイツではない。
「わかってますよ。あの機材、一応共有扱いですけど、実質私が専有してますしね」
 鳥類の受精に関する新たな仮説を証明するために、どうしても最新の孵化器が必要だった。高額ではあったものの、ミハルはその購入の許可を下ろしたのである。
「これで私の借りは精算、ということで何卒よろしくお願い致します」
 それは、共同生活を送る上での当然の配慮だった。あまり借りばかり作っていると、いざというときに誰からも協力を得られなくなる。だからこそ、ムイツ自身には特にメリットもなかったが、そこに予算を割くことに反対はしなかった。
 そして、今回の無性モルモットを最も切望しているのは、間違いなくヨニ本人ではあるのだが――
「それでは、無性モルモットがもたらすメリットを予算的に絡めて分析してみたから、こっちのグラフを見てくれないかな。現在難航している事案については、ナクムとイルグ、それにジーバの――」
 あくまで全体に利益がある、とばかりにヨニは様々なデータを並べていく。そして、誰かが提案してくれるのを待ち、自分から具体案を出すことはない。良くいえば空気を読み、悪くいえば狡猾――それが、ヨニだ。物事がうまく進んでいるときは良いが、躓いたときの責任回避が露骨すぎる。例え道理が通っていても、心情的に納得できるものではない。その不満が吹き出したとき、道理の通らない形で孤立させられてしまう。それが、ミハルにとって心配の種だった。
 ヨニが揃えてきた情報を基にするのなら、導き出される予算上限は全体の三割が妥当だろう。しかし、ヨニ自身がそれを提案することはない。もし今期の予算が枯渇したとき、その不満の矢面に立つのは提案者――この流れだと、おそらくはナクム。ミハルとしても、そんなところで揉めて欲しくはない。ならば――
「それならぁ……出せる予算は三割まで、研究員の貸し出しは一先ず不可、その他の要求があったら一旦お持ち帰りーってことでいいかなぁ?」
 ヨニの説明が終わると同時に……案の定、ナクムは手を高々と掲げている。が、それを無視してのミハルによる発言。この強引な割り込みに、サブリーダーは何も言えない。やはり、同意見だったようだ。
「リーダー……オレが言おうと思ってたんだぞ……」
 立場がサブなので、それ以上突っかかることはない。ただただ恨めしそうな視線を向けている。
「まぁまぁー、話をつけるのは私だしぃ? ここは自分で決めさせておくれよぉ」
 見せ場を取られたナクム以外に、不満そうな顔はない。この案で総員異存はないようだ。結局、もっとも清々しい顔をしているのは……ヨニである。
「じゃあ、この議題は決まりだねぇ。ヤシロ教授との交渉ネゴは頼んだよー♪」
「はいはい、リーダーも楽じゃないわぁ」
 予算不足の際に他の研究室に借りに行くのは、結局はリーダーたるミハルである。ならば、その責任は自身で持っておいた方がコントロールもしやすい。これも自分の仕事のひとつか。あとは、教授の新素材が我々に劇的な進展をもたらしてくれるのを祈るばかりである。

 会議の冒頭で大きな予算が幅を利かせては、個人の研究に対する備品購入に関する話などできようもない。一先ず不可欠な消耗品だけ確認すると、あとはミハルの交渉次第として、続きは後日となった。とはいえ、あまり決定を長引かせていると、発注期限自体が打ち切られてしまう。臨時購入は割高だ。不確定要素はさっさと固めるに越したことはない。
 ということで、ミーティングスペースから出たところでミハルはデスクに戻らず、そのままヤシロ教授のラボに向かうことにした。
 やはり、各々自分の研究が気になるようで、すぐに続きに取り掛かろうとしている。だが、ミハルと同じく席に着こうとしない者がいた。
「ねーねーリーダー、ヤシロ研究所ってどんなとこ? いいなー、ボクも行ってみたいなー」
 この楽天家だけは、教授を恐れていないらしい。先入観にとらわれないその好奇心は、研究者として重要なことだとミハルは思う。その分そそっかしく、迂闊なところで見落としがあったりするのだけれど。もう少ししっかりして欲しくて、ミハルは後輩の世話役を任せていた。
「か、勘弁して欲しいッス~……私の研究、半月分は手戻ってるんスから~」
 リーダーと共に今にも飛び出しそうな先輩を、ジーバは慌てて呼び止める。このふたりは、ハロクドのチェックミスに気づかないまま誤ったデータで実験を進めてしまい、そのすべてが水の泡になったばかりだ。
 それでも、ジーバのサポート依頼はミハルからの個人的なものであり、非公式なものである。ゆえに、後輩の研究が座礁してもハロクドには何の非もないし、その内容に興味もない。ゆえに、若手を見て初心を顧みてもらう以上の効果はなく、ジーバは焦りを募らせるばかりだ。
 誰かが不安になったとき、ここぞとばかりにイルグは絡んでくる。
「それは良くないな。今年度からレギュレーションも厳しくなっているみたいでね」
 話し始めようとしている表情だけで、ミハルにはこれからホラを吹こうとしていることがわかった。が、新米ジーバはつい真剣に耳を傾けてしまう。
「知っているかい? これはとある<研究員>の話なのだけど、成果が芳しくなかったばかりに、<地上>へと追放されて……」
「え、え、え~~~っ!?」
「大丈夫だってー、成果はきっと出せるから!」
 心底泣きそうになっているジーバに対し、ハロクドの励ましには根拠がない。どうやらまともに取り合うつもりもないようだ。これでは何も解決していないので、きちんとリーダーから訂正しておく。
「もぅー、<アカデミー送り>がせいぜいだから心配しなくていいよぉ」
 基本的に、<地下研究所>への入所が許されるのは、将来の有望性を見込まれた者だ。いっとき研究が滞っても、しょとして見限られた前例はない。
 だが、<アカデミー>から卒業するにも大変な苦労があるため、ジーバの顔は引きつったままだ。そんな若手に、イルグはすぐさま追い打ちをかける。
「気持ちは解るよ。だからこそ、“<アカデミー>の亡霊”となってしまった人もいるくらいなのだから」
「な……なんスか……その非科学的な話は……」
 この<研究所>でベタにオカルティックな存在を信じている者はいない。ゆえに、それが何かの比喩であることはわかっているのだが、その響きは若手の不安を掻き立てる。
「<アカデミー>へと戻るのは嫌だ、かといって、卒業資格がなければ正規に在籍することもできない。その結果……こっそりと研究室へと潜り込み、正体がバレそうになったら別の部屋へと移り続けるという逃亡生活を送ることに……。そういえば、ジーバが入ってくる二年前にも、いつの間にかこの部屋にいて、いつの間にかいなくなっていた不思議な<研究員>がひとり――」
 先輩たちは当然知っていることであるが、知らないジーバは本気で恐れおののいている。なので、ミハルはちゃんと種明かしをしてやった。
「はいはい、あのコは手続きミスで一時的にいただけだからねー。いまでは他所の研究室で頑張ってると思うよぉ」
 そもそも、<地下研究所>にいる限り<アカデミー送り>からそう逃げられるものでもないし、そこまで地獄の施設というわけでもない。つまるところ、そんな亡霊とやらもまたイルグジョークだ。とはいえ、もし本当にいるのなら……ミハルとしては、一度会って話を聞いてみたい気もする。研究もせず、<アカデミー>にも戻らず、飄々と暮らす<地下>での生活模様を。
「そ……それは良かったッス……」
 ジーバはようやく胸を撫で下ろすが、何も解決していない。
「とはいえ、<アカデミー送り>にされちゃう人は毎年出てるし、先輩だって例外じゃないんだからねぇー」
 そう、後輩の世話を焼いている先輩とて、対象外ではないのだ。
「大丈夫大丈夫! ボク、頑張ってるから!」
「わっ、私の研究も頑張って欲しいッス~っ」
 ハロクドがジーバに引っ張っていかれたことで、扉の前に取り残されたのはイルグのみ。悪趣味な研究員はミハルにぼそっと不穏な提案を囁きかける。
「謎多き研究室への訪問は気が重いだろう。何なら、このイルグが一緒に行ってもいいんだが?」
 しかしこれは、心底悪趣味なイルグジョークだった。
「……ホント勘弁してよもぉー……」
 こんな厄介者を不穏な施設に連れて行っては、帰り次第、あることないこと吹聴して回るに決まっている。だから、絶対に連れてはいけない。
 それは、イルグにも自覚はあったようで、溜息をつきながら快く見送ってくれた。
「ま、いいさ。多大なる成果と、多大なる土産話を期待しているよ」
「無駄な話はもーお腹いっぱい」
 最後の最後まで、イルグはジョークで締めてくる。これがある限り、新人育成は任せられないな、とミハルは頭を悩ませるのだった。

       ***

 ヤシロ・ラボに赴くには、二五階まで下りなくてはならない。そして、中央研究棟の正面玄関から、さらに歩いて一〇分。<地下研究所>という器の底に、外壁を掘り進める形でそれは造られていた。敷地内から見えるのは埋まったボールのように丸い一部分だけ。そこに扉もついているが、中は狭い一部屋が小ぢんまりとしているのか、もしくは蟻の巣のような迷宮が張り巡らされているのか――そこからして判らないのでは、イルグのネタにされるのも無理はない。
 教授の姿を外で見るのは、論文発表の時くらいのものである。日々どのような暮らしを送っているのか、他の者には想像もつかない。ただ、きっと、日常のすべてはラボ内で済むのだろうな、とミハルの両足は言っていた。事あるごとにここと本棟を往復するなんて、とてもじゃないがやってられない、と。
 さて、扉の前までやって来たものの――そこにカードリーダーやインターホンの類は見当たらない。こんなことなら、事前に約束アポを取っておくべきだったか。しかし、いまさら何もせず引き返すつもりもない。というか、こんなところにそう何度も来たくない。彼女の足に、ここは少なからず遠すぎる。
 コンコン、とノックをすれども、中からは何の反応もない。それでもコンコン、コンコン、とミハルは叩き続ける。こうなったら、教授が気づくまで叩き続けてやる、という勢いで。
 コンコンコンコン、コンコンコンコン、コンコンココンコンコンココンコン。
 両手の刻むビートが少し楽しくなってきて、ミハルはノリノリでリズムを演奏していた。
 が。

 カチリ。

 それは、まるで合いの手のような金属音。振動で外れるほど緩い施錠ではないと思うが、試しに取っ手を引いてみると……開いてしまった。
「ご……ごめんくださぁい……」
 控えめに中を覗き込んでみると、そこは玄関と呼ぶには異様に広い。倉庫というか、物置というか、壁に沿って大小様々な箱が乱雑に並んでいる。が、天井はドーム型に湾曲しているため、そう高くは積み上げられない。だから、それらは低く、広く。無駄に床面積を要するため、散らかっている印象が極めて強い。
 だからだろう――それを、人形だと認識できたのは。まるで荷物のように、もしくはゴミのように。おとな一体分の肌色の塊が、ゴロリと何気なく打ち捨てられていた。
 きっと、廃棄するつもりで、入り口間近のこの空間に運んでおいたのだろう。あのリアルな人形がどのように処理されるのか……その様子は、あまり想像したくない。
 ともあれ、教授はきっと奥にいるはずだ。経緯はともあれ、ここまで来てしまったのである。うっかり扉を閉めては、二度と外から開けられないかもしれない。用事があることには違いないし、ミハルは勝手に上がらせてもらうことにした。
 しかし、パタン、と扉を閉じると同時に――
「ゴ、ゴ、ゴ……」
 埃をかぶっていた人形の両目がギロリと光る!
「ゴシュジンサマァァァァァッ!!」
「ひょぅえぇ!?」
 驚きのあまり身を固くするミハルに対して、自動人形は容赦がない。突然動き出した人ひとり分の質量が短距離走の運動エネルギーをもって――衝突。研究に不要なものはすべて排除された<地下研究所>で、腕力に物を言わせた争いごとなど寡聞にして知らない。ゆえに、ミハルには抗うすべもなく押し倒されてしまった。
「ゴシュジンサマッ! ×××ッ! ゴシュジンサマノ×××ヲワタクシニィィィィッ!」
 細腕の研究者にのしかかり、自動人形はしきりに服を引っ張り伸ばす。
「ひぇっ、ひえっ、ひえぇっ! 私ゃアンタの主人じゃないし、陰茎だってないってばぁ!」
 舐め回してくる舌はヌルヌルと生温かく、ベタベタと絡みつく肌は作り物とは思えない。それはまるで、浴槽で触れたクイゴの身体を思い出すほど。言われなければ、人間と間違えてしまいそうだ。
 いや、まさか、本物の――!?
 ゾクリと悪寒が走ったところで、ようやく研究室の主も気づいてくれたらしい。
「なっ、何をしている、四五号!」
 駆け寄ってきてた教授が人形の首筋に何かの装置を当てると――それまでの暴走が嘘のように静かになった。
「ふ、ふひぃー……助かりましたぁ……ありがとうございますぅ」
 あまりの窮地に、思わず口から礼が出た。自分の置かれた立場も忘れて。
「ところで、キミは誰だ? ここで何をしている?」
「ひゃあぁっ、それはそのー……」
 無断で上がり込んで騒ぎを起こしたとあれば、交渉以前の問題である。しかし、幸いなことに、この来客は教授にとって興味の内側にいた。
「もしかしてキミは……あぁ、生物学の……」
 ミハルはこれでも、研究室をひとつ預けられている身である。論壇に上がることも度々あるし、教授にも見覚えはあったようだ。とはいえ、親しき仲以外は、基本的に番号で認知されている。細かな数値までは記憶していなかったようだ。
「はい。研究員番号386……ミハル、とお呼び下さい」
 一方、ヤシロという呼び名は、いわゆる俗称である。話題に事欠かない存在感のため、その語呂合わせは本人が与り知るとは限らない。なので、ここは番号で呼ぶべきかとも思ったが――
「ふむ、ここまで来たキミに今さら名乗る必要もないかもしれないが……私は、研究員番号846……まあ、ヤシロで通っている」
 本人も存じていたらしい。
 教授自身を外で見かける機会は少ないが、その近影は<研究者>の間でもよく知れ渡っている。皮膚には多少のシワが刻まれているものの、白髪が混じっている様子はない。研究者は目を酷使するため眼鏡を掛けている者も多い中、珍しく裸眼である。だが、肩から下は――腰にタオルこそ巻いているが、人形と同じく全裸に等しい。肌が上気しているし、おそらく風呂上がりなのだろう。引き篭もっているからといって身嗜みを雑にはしていないらしい。ヒゲはきちんと剃られているし、クイゴほどではないにせよ、身体に無駄な脂肪もなく引き締まっている。初老と呼ぶには若々しく、まさに理想的な肉体のように感じられた。
 とはいえ、長話をするような装いでもない。
「このラボにやってくる<研究員>など初めてだが……どこから入ってきた?」
 部屋には窓もないし、そもそも外壁さえも尽く埋まっている。忍び込むことすら難しい。だから、ミハルは半分だけ正直に話す。
「えーとぉ……実は私ぃ、用があって来たんですけどぉ……そしたら、このコが中から開けてくれてぇ……」
 イルグならもっと気の利いた誤魔化し方があったろうに。ひとりで来てしまったことを少し後悔しつつも……
は抜いておいたつもりだったんだが……驚かせて済まなかったな」
 教授にも思い当たる節があったらしい。ミハルの出任せを疑うことなく信じてくれた。
「で、私に用があるとのことだが……それなら、中央広場の休憩所で待っててくれないか? 身支度を整えたら私もすぐに向かおう」
 濡れたままでは身体も冷えてしまう。後の約束を取り付けると、教授は即座に踵を返す。
 だが、ミハルにはどうしてもこの場で確認しておきたいことがあった。
「は、はいぃ……で、で、このコ……そのー……人形、なんですよねぇ……?」
 正直に答えてもらえるとは限らない。それが、研究に深く関わることであればあるほど。
 しかし、教授には隠す必要はなかった。ゆえに、紳士然としてミハルに告げる。
「人形、というのは正確ではない。それはいわゆる……ホムンクルス、というやつだ」

 さて。
 ミハルの歩みが緩慢ということもあるかもしれない。喫茶店で席に着き、紅茶を一杯注文したところで、ヤシロはすぐに追いついた。一〇ほどある丸テーブルはすべてテラス席ではあるものの、そもそもここは<地下研究所>である。空調制御は室内と変わらない。また、こんなところで悠長に暇を持て余しているような<研究員>もそうおらず、基本的に常時閑散としている。
 ならば、どのような場合に用いられるかというと、緩い雰囲気での情報交換、もしくは、入浴同様の気分転換。実際――カウンター真横の席ではどこぞの白衣がグッタリと机に突っ伏している。おそらく実験の目論見が外れ、腑抜けているのだろう。そんなとき、紅茶の香りは現実に立ち向かうための勇気を与えてくれる、かもしれない。
 教授はカウンターでホットのコーヒーを注文すると、そのままミハルと同卓に腰を掛ける。それで、店側も察してくれたようだ。紅茶ほど長く蒸らす必要のない珈琲はミハルの待ち時間に煎れ終わり、店員はふたり分のカップを合わせて配膳してくれた。
「たまにはこういう場で一服嗜むのも悪くないな。豆なら定期的に届けてもらっているが」
「あー……やっぱりあの研究室で生活のすべてが済むんですねぇ……羨ましいですぅ……」
 浴室もあるようだし、やはりヤシロ教授は特別待遇で研究に勤しんでいるようだ。
「で、その羨ましい私に対して、何を所望しているのかね?」
「あ、あ、いや、そーゆー意味じゃなくてですねぇ」
 嫌味として受け取られては敵わない。ミハルは慌てて訂正しようとするも、そこまでの堅物でもないようだ。
「はは、解っているさ。それに、私が羨まれるような環境で研究させてもらっていることもね」
「は……はぁ……」
 研究者は、その明暗がはっきりとした形で現れる。ゆえに、裏付けされた自信によって、あけすけな物言いをする者も珍しくはない。
 だからこそ、ミハルもまた単刀直入に切り込む。
「実はですねぇ、教授の成果物である無性モルモットをいくらか譲っていただきたく……」
 ヨニの資料を斜め読みした限りだが、それもまた研究の本流ではない。その前段階としての試作種である。ならば、他者への譲渡も視野に入れていたはずだ。もちろん、無償ではないものの。
 しかし――
「そうしたいのは山々だが、まだ理論が確立しておらず成功例も少ない。外に出せるほど量産はできないんだ」
「うぅ~……そこを何とかぁ……研究費も多少でしたら融通しますしぃ……」
 会議での決定事項を持ち出そうとするも、教授はそれで動く様子はない。
「申し訳ないが、資金には困ってないな」
「でもでもっ、教授の研究室はおひとりですよね!? 経常予算はそう多くないはずではぁ……?」
 数多の偉業はすべて臨時報酬という形のはず。そして、定期的に配分される予算については、研究室の規模――人員の数によって決まるのが常だ。
 しかし、教授の特別待遇には理由がある。
「私の研究は、<地上>では非常に有用らしくてね。成果物を高額で買い取ってもらっているんだ」
「はー……なるほどぉ……」
 さすがは<地上>に向けられた研究だ。<地下>で理解は得られないが、その成果の一つひとつが報奨金どころではない資金源となっているのだろう。
「あのホムンクルスも出荷されてるんですかぁ?」
「アレはまだ実験体だよ。完成には程遠い」
 確かに、成功したという論文は発表されていない。だが、いずれその偉業を達成することができれば、<地上>の生活は一変することだろう。
 ただ、ミハルにはひとつだけ気になることがあった。
「でも、どうしてあの実験体、メス型だったんですぅ?」
 その理由を聞けば、自分の性別を活かすヒントになるかもしれない。だが、それはミハルには叶わないことだった。ミハルに限らず、この<研究所>に務める者には等しく。
「それは……生殖が目的だからな」
「はぁ……」
 これに、ミハルは落胆するしかない。生殖などは、<地上>に任せておけば良いのだから。この<地下研究所>でメスの身体を持つ理由――それを見出すことには繋がらない。
「教授……メスって、どうしてメスなんでしょーねぇー……」
 ほとんどの研究員にとって、雌雄の差など無いも同然と言える。ミハルが目指した道のみが、数少ない例外だっただけで。
 ゆえに、教授にもその問いの意図はわからない。だが、自分が認知している範囲の中で言えることはある。
「<地上>に出れば、男女の役割も現れてくるものだが」
「でしょぉねぇ~……」
 <地上>の役割は人口の増進。メスしか子を産めないとあれば、さぞ重宝されていることだろう。
「はぁ……私も<地上>で生活していれば良かったんでしょーかねぇ……」
 <研究所>に下ろされたばっかりに、夢を見て、挫折した。<地上>では<地上>の苦悩があったかもしれないが……メスであるメリットは活かせたかもしれない。
 が、ミハルのこの愚痴は、ヤシロにとって極めて意外だった。
「ん? キミは<地上>に興味があるのか?」
 <研究者>たちにとって、<地上>で興味があるとすればその金蔓くらいのものである。そこに自ら出てみたいなどと思う者は珍しい。
「えー……まー……<地上>とゆーか、世界全般にですけどぉ」
 ミハルは語る。世界の隅々まで調べてまわり、その成り立ちに触れてみたかったという夢を。それは、生物学で数々の結果を出している研究室室長が抱いているとは思えない願望。だが、一頻り耳を傾けていた教授は彼女にひとつの提案を打ち出した。
「無性モルモットの件、数は少ないが……まったく出せないとは言っていない」
「本当ですかぁ!?」
 このまま何も得られずに引き返しては、チームのメンバーに申し訳が立たない。だが、この展開は事前の打ち合わせで禁じられている。
「必要なのは金ではなく人でね」
「そ……それは……」
 ヤシロ教授の研究は得体が知れない。研究員を危険に晒すわけにもいかず、ミハルは返答に窮する。
 だが、一旦進捗が動き出すと、押しが強くなるのも研究者のサガか。
「聞くだけ聞いてくれ。実はな……昨今、<地上>では人口が減少傾向にあるらしい」
「ふぇっ!?」
 ミハルたちとて、新生適性児が年々減ってきていることは懸念していた。しかし、そもそも人そのものが減っていたとは初耳である。
「それで、人工繁殖の研究を……。そういえば、あのホムンクルス、陰茎……生殖行動を求めてましたけどぉ」
 ホムンクルス同士で増殖できれば、それに越したことはないのだが。
「残念ながら、性欲だけだ。生殖そのものには成功していない」
「んー……難しいんですねぇ……でも、ちゃんとした研究目的があるのなら、もっと堂々と開示しても良いのではぁ?」
 そのような動機付けであれば、他の<研究員>たちからも妙な誤解を受けることはないはずだ。
 とはいえ。
「あの暴れ方を見ただろう? あんな醜態が露見すれば、古参連中に研究自体を止められかねん」
「うはぁー……面倒ですもんねぇ……旧世代の方々は」
 道徳だの倫理だの、若い世代はあまり関心を持っていない。そんなものは、<地上>の人々が成果物を見て判断してくれればいいだけだ。ときには、公表を止められることもあるけれど、<研究員>の間ではきちんと評価されている。ならば、何の問題もない。
「ということで、まっとうな個体を発表できるまで、先程見たことは口外しないで欲しい」
「そうですねぇ。わかりましたぁ」
 ヤシロ教授ほどの人なら、きっと近い将来きちんとした形で研究を成功させるだろう。ミハルはそれまで、この件は自分の胸に秘めておくことにした。
「で、人口を人為的に増やす研究と並行して……<地上>に現地調査をぉ……?」
「ああ、減少の原因が何なのか。そして、<地上>の連中はこれについて何の手も打っていないのか……状況によっては、私の研究の意義が損なわれてしまう」
 その成果が実を結ぶまでにどれだけかかるか分からないが、実現した頃には人口が増加傾向にあってはその価値も半減だ。
「行儀のいいお役所情報だけではどうにも読み解けん。だから、実際に<地上>の民に接触し、情報を集めてくれる者を探していたんだ」
「それって……もしかして……!」
 教授の権限があれば、必要に応じて<地上>への通行許可を付加することもできる。今回の依頼を引き受ければ、研究室に籠もって実験体をいじり回す日々から開放されるはずだ。
 それはまさに、ミハルが夢見て止まなかったこと……!
「行ってくれるか?」
「それは……」
 ミハルが乗り気なことは、ヤシロにもすっかり見透かされている。だが、先程のミーティングでの決定事項を無碍にはできない。
「でもぉ……私、体力ないしぃ……」
「<地上>は未開の土地ではない。そう身体に負担も掛からんだろう」
「ぅ」
 まさに、ミハルも同じことを考えていた。
「そ、そうはいっても……私、一応リーダーでしてぇ……成果物の管理とかぁ……」
「任せられるサブはいないのか? それに……こちらでも最大限のバックアップは保証しよう」
 ヤシロ教授にサポートしてもらえるのであれば、ナクムやムイツが成長するキッカケになるかもしれない。
 これはもう断れないかな、とミハルは諦観しつつあった。どんなに否定的な懸念点を挙げようと、どうしても前向きにばかり考えてしまう。
 そして、教授からダメ押しの一言。
「研究成果には研究成果で返すのが研究者……どうだ、受けてくれないか?」
 そこまで言われては……もう、飲むしかない。
「わかりましたぁ……どうか、うちの研究員たちのことをよろしくお願いいたしますぅ」
 そう言って頭を下げながらも、ミハルは瞳を輝かせていた。人生初のフィールドワーク……! それがどんな結果になろうとも、必ずや今後の糧になるだろう。
 話がまとまれば長居は不要だ。ミハルは即座に席を立つ。
「それではぁ、私は研究室にこの件を――」
 と、伝票を摘み上げたミハルを、ヤシロが引き止めた。
「いや、自分の分くらいは自分で支払わせてくれ」
「え、でもぉ……色々頼んでしまったのはコチラですしぃ……」
 珈琲一杯など押し問答するような額ではない。強いて言うのなら、通念とでもいうべきか。頼み事を持ちかけた自分が代金をもって当然だと思っていたので、ミハルもミハルで少し戸惑う。
 だが、教授もここを譲る気はないらしい。
「こちらからも調査を願い出ている。ならば、我らの立場は対等だ」
「そういう……ことならぁ……!」
 これに、ミハルの気も引き締まる。ヤシロ教授の研究成果に見合う調査結果をヤシロ教授に届けなくてはならないのだから……!

       ***

 無性モルモットの譲渡と引き換えに、室長の長期不在――この成果は、研究員たちにとって手放しに歓迎できるものではない。
「おやおやリーダー、人員の貸出は不可、じゃあなかったのかな?」
 不測の事態において、真っ先に突いてくるのはやはりヨニだ。自分に非がないことを明確にするために。
「やはぁ……ついノリでねぇ……ま、何かあっても私だけだからぁ」
「そういう問題じゃないぞ! リーダーがいなくなったら……リーダーを継ぐのは、このオレなんだぞ!」
 サブがリーダーの代理を務めることについて、皆々異論はないらしい。その力量がついてくるかは別として。
「一応ヤシロ教授がお世話してくれるようだから……困ったことがあったら相談してねぇ」
「そ、それは、心強いような……恐ろしいような……」
 <研究所>に上がって間もないジーバには、やはりヤシロ教授は畏怖の対象であるようだ。とはいえ、他のメンツにとっては、そこまで気にかけることはない。むしろ、身を案じられるのはミハルの方である。
「ふふ、リーダー自ら<地上>へ赴くとはね。そこは未だに暴力によって支配された蛮人が跋扈しているという。流血沙汰に権力闘争……不都合は感情のままに相手を殺して解決とする……それが、<地上>という世界と聞いたよ」
 これには皆不安そうな顔を見せるが……ヤシロ教授の話よりは反応が鈍い。何故なら、行くのはミハルだけである。良くも悪くも、その他の者にとっては他人事であるうえ、<地上>などに噂話以上の興味もない。せいぜい、室長変更の手間が増えるくらいだ。
 とはいえ、当のミハル本人にも大して恐れる様子はない。
「大丈夫だってぇ。そういうのは『法律』で禁じられてるからぁ」
 <地上>のしきたりの類は興味本位で聞きかじっている。さらに、これから詳しい資料もヤシロ教授からもらえるし、使い道もないままに貯め込まれてきた私財も充分にあるはずだ。<地上>の調査に困ることはないだろう。
「それで、いつ発つんです?」
 話を前に進めてくれるのは、やはりムイツか。
「一週間後、だってぇー」
 何も、秘境へと旅立つわけではない。現地通貨への両替もできるので、細かな必需品はその場で調達するつもりだ。ミハルとしてはすぐにでも出たいくらいだったが……さすがにリーダーという立場上、そうもいかない。
「それは急だぞ! こっちにだって準備ってもんがあるんだぞ!」
 いつかはリーダーとなるつもりだったとしても、いまはまだ自分の研究がある。いきなり管理職を任されては、そのスケジュールに支障を来しかねない。さすがにそれは申し訳ないので、ミハルはそれなりに担当の分散を考えていた。
「まーぁ、引き継ぎについては入念にするからぁ。ただ……もし他の研究室と交渉ネゴらなきゃならないときはぁ……ヨニ、代行してくれるぅ?」
 自分のいない間、ナクムが転べば研究室全体が転びかねないことは、ヨニも理解しているはずだ。ゆえに、これまではヨニ自身の責任回避のために行っていた根回しを、みんなのために行って欲しい、とミハルは願っていた。
 が、頼まれた方は意外だったらしい。
「あれれぇ、私? ムイツじゃなくて?」
 だが、その名を出した途端、ナクムの釣り眉がさらに釣り上がる!
「若いムイツにはまだ難しいぞ! だからヨニ、よろしく頼むぞっ!」
 強引に任命されたばかりのパートナーの手を取って、決定事項として周知させてしまった。サブリーダーとて、決してムイツを嫌っているわけではない。ただ、行き過ぎたライバル意識をこじらせているだけで。ミハルがムイツに目配せすると……言葉には出さず、苦笑いで返す。そうやって、このふたりを外側からやんわりと見守っていて欲しい――それが、リーダーとしての思いだった。
「そしたらそしたら、ボクはどーすればいいっ!?」
 順々に役割が与えられていくのを見て、どうにも堪らなくなったらしい。が、いまはまだその段階ではなさそうだ。
「私のいない間、ジーバをしっかり見てやってねぇ」
 結局は、これまで通りである。これにはハロクドもつまらなそうだ。が、そんな表情をされては、後輩としては不安しかない。
「ハロクドさん……ホント頼むッスよぉ……」
 この若手に必要なのは、何よりも実績と経験。それを積むためには……能力はあるが、程よく頼りない先輩が丁度いい。
「まー……私は留守にするけど、みんなは研究頑張ってねぇ」
 ミハルから励ます必要もなく、ナクムは力強く握り拳を固める。
「心配ないぞ! リーダーが帰ってくる頃には……リーダーを超える成果を出して、オレが正規リーダーになっているかもしれないぞ!」
 そう確固たる意思表明を見せるのはナクムだけであり、他の者たちはそれで話が終わったものと、各々の席へと帰っていく。結局のところ、テーマは個人単位だ。誰かが研究室として管理する必要はあっても、研究そのものに影響はさほどない。
 その辺りの引き継ぎは追々やっていくとして……ミハルにもやらなくてはならないことがあった。資料を頭に叩き込むのは得意分野だが……初のフィールドワークとなれば、準備すべきことは他にもある。

 さて、ヤシロ教授からの後押しもあり、<地上>の調査についてはほとんど心配ない。だが、ひとつだけ懸念することがあるとすれば……それは、体力。これまでずっと椅子に座りっぱなしで、室内での移動は椅子のキャスターを転がしていたくらいだ。こんな調子で<地上>に放り出されては歩くことすら不安になる。
 それで、トレーニング室のルームランナーに挑戦してみるも……
「ふぅ、ふぅ……もう無理ぃ……」
 あっという間に足は止まり、ズルズルと後ろへ流されていく。
 ポイと台の下へと投げ出され、ミハルは無様に尻餅を搗いた。そんな彼女を立派な体躯を持つオスが見下ろしている。
「おぅ、もう休憩か? なら俺に使わせてくれ」
 クイゴにとって、ミハルの重さなどバーベルの半分にも満たない。彼女の身体をヒョイとわきへ移すと、彼は自分のカードをマシンにかざす。日々のメニューはこれに保存されているので、自動的に速度が設定された。
 このスピードは、きっとミハルが全速力で走っても追いつけないし、一〇秒持たずに息切れしてしまうことだろう。それを、三〇秒……一分……ローラーに軽々とついていっている。
「うぅ……私、こんなことでやっていけるのかなぁ……」
 もう後戻りはできないとはいえ、自分の身体がどんどん弱気になってくる。そんなミハルを横目で見ながら……クイゴはランニング状態のまま話しかけた。
「俺たちは、<地上>の様々な国に行くからな。言語にも長けている。だが……研究している古代語を喋れる者はいない。何故だと思う?」
「?」
 クイゴが何を言いたいのかよくわからず、ミハルは首を傾げて言葉を待つ。
「それはな、いまその言葉を使っている者がいないからだ」
「はぁ……身体も使っていれば、環境に合わせて使えるようになるってことかねぇ」
 何と行き当たりばったりな願望か。それでも……実際に世界を飛び回っている者の言うことだけに、それなりの説得力はある。
「別段、原始人の町へ行くわけじゃあないのだろう? そこもまた、言葉の通じる場所なのだし……ミハルほどの体力の者が暮らしていけないのであれば、我々の研究が活かされているとは思えん」
 ここのテクノロジーは、<地上>から取り入れられたものだ。そんな<研究所>で生活ができているのなら……むしろ、<地上>の方が便利である可能性すらある。
「そだねぇ……うん、頑張ってみるよぉ」
 未知なるものに怯えて尻込みするのも馬鹿らしい。<地上>に出たら、自分なりにできることをやるだけだ。
「帰ってきたら……初めて私からのレポートを見せられるかもねぇ」
 クイゴ一団の調査結果――それは、ミハルにとって悔しすぎて――そして、輝かしすぎて――これまで直視することができなかった。しかし、それを自分で書くことができれば、きっと何かが変わるだろう。
「おお! 楽しみにしているぞ!」
 クイゴの足下はゆっくりと回転が止まっていく。どうやらインターバルに入ったようだ。しかし、ミハルに止まっている暇はない。
「じゃあ、私には私にできることをやっとくねぇ」
「おう、頑張れよ!」
 体力作りは<地上>で改めて。いまは、そのために必要な情報を頭に叩き込んでおくべきか。

       ***

 <地上行き>のエレベーターを使う者は殆どいない。なのでそれは、<研究所>の敷地の端の方――ヤシロ教授のラボとは、また別方面の最果てに設置されていた。別段豪奢でも頑丈そうでもない。<研究所>の施設の意匠は基本的に単調で、ここもその例に漏れることはない。そこは、中央研究棟からミハルの足では徒歩二〇分――これだけでミハルはすっかり参ってしまった。
 クイゴや研究室の面々との挨拶は昨日のうちに済ませてある。今頃は各自やるべき日々の研究に努めているはずだ。
 幸い、手荷物は特にないし、ここでの研究を<地上>で続けるつもりもない。一旦ペンディングとして、研究室の共有フォルダに保存してある。帰りはいつになるか分からないが……できれば、自分以外の誰かがその実験に成功しておいてくれたら楽だな、と他人任せなことを考えていた。論文の中で謝辞のひとりに加えてもらえれば、<研究者>としての面目は充分に保たれる。
 緑のジャージのポケットにはパスケースがひとつだけ。研究に携わらないのだから、白衣は自室に置いてきた。探索に出発するクイゴはアレコレと荷物を背負っていたが、もしあんなものを担がされていたら、ここに来るまでに心が折れていたかもしれない。
 やっとのことで扉の前に辿り着くと――何故かヤシロが待っていた。
「お……お疲れ様ですぅ……どうしてここに?」
 教授とて自分の研究があるはずだ。
「私はキミに依頼した立場だからな。その門出くらい見届けさせてくれ」
「門出って……『讃えるべきは結果のみ』ですよぉ」
 決してその過程を疎かにすべきではない。が、事あるごとにイチイチ持て囃していてはキリがないし、その先に待っているのが袋小路であれば、余計に落ち込むこととなる。
 今回の調査は――結果的に、ヤシロ教授にとってプラスになるとは限らない。だからこそ、現時点ではあまり期待しすぎない方が良いのでは、とミハルは思っていた。
 どこまでも研究者然としているミハルに、ヤシロは笑って言い直す。
「ならば、最終確認、とさせてくれ。調査内容は人口増加の妨げとなっている要因と、これに対して有効な手は打たれていないのか」
 それについて、ミハルも資料を読み返しながら考えていた。人が減っているなど、<地上>の方がそれを肌身で感じていることだろう。ならば、何も対策を講じないわけがない。
「きっと、何かやってはいるんでしょうねぇ……」
 それは教授も同意見のようだ。
「ああ、だから重要なのはむしろそこだ。<地上>の人間たちによる施策がどのような効果をもたらしているのかを知りたい。それこそが、先行きを予測する鍵になるのだからな」
 原因という過去を埋め、結果という未来を知る――それはまさに、ミハルが目指していた道に他ならない。
「期間は……最低でも三ヶ月。まあ、一年間は生活できる資金は振り込んであるから、形になり次第戻ってきてくれ」
「は……はいぃっ!」
 下された指令に、ミハルの気分は高揚していく。これこそまさに、調査のための冒険の始まり……!
「私からは以上だ。研究員番号386の健闘を祈る」
「はいっ、ありがとうございますぅ!」
 ミハルがリーダーにカードで触れると、扉はスゥと両側に開いた。本来、ミハルにここを出入りする権限はない。まさに、ヤシロ教授による特別措置なのだろう。
 そこに乗り込み……彼女は教授に頭を下げる。
「ヤシロ教授……今回は、このような機会を与えて下さって……本当にありがとうございましたっ!」
「こちらこそ……キミに行ってもらえて助かったよ」
 そして、扉は閉じられた。その目的地へ到達するまで、彼女を載せたゴンドラが止まることはない。

 一応、高度を示すために、現在何階相当にいるのかの表示はある。だが、地下一階からが異様に長い。だからこそ、様々なものが詰まっているのが感じられる。それはきっと、<地上>のもの。<地上>といえども、地下はある。このあたりには、彼らの生活空間が埋まっているようだ。
 それにしても、長すぎる。予想外の上昇圧力に、ミハルの頭はグラグラと揺れ始めていた。
 そんな調子だったので――エレベーターの扉が開くなり、彼女は吐き出されるように外へと倒れ込んだ。これでは、感慨深さや高揚感を味わう余裕すらない。記念すべき第一歩は、なんとも情けないものとなってしまった。
 とにかく……どこかに座りたい……。かといって、道の真ん中を陣取っては歩行者の迷惑となる。なので、隅っこに。ちょうど背もたれになりそうな支柱もあった。その向こう側は一段低くなっている。おそらく、事前情報として読んでいた『車道』と呼ばれる領域だろう。<研究所>で人や貨物を運搬するような車両は見ない。だが、大質量をもって高速移動していると聞けば、その運動エネルギーは生身の人間にとって驚異となるだろう。歩道も歩道で休むべき場所ではないが、車道よりはまだマシだ。
 黒く硬い地面によっこらせと腰を下ろし、長い溜息を吐きながら空を見上げる。別段、澄み切った青空……ということもないようだ。むしろ、空の色合いなら<研究所>の方が美しい。それは、作り物だから。人々が思い描く、理想の蒼天。ゆえに、ひっかき傷のような白い雲が、ミハルの心に強く響いた。きっと、凝結高度やその厚みによっては薄黒く映り、無差別に街中を水浸しにする“雨”を降らすのだろう。ここは、人々の研究のために管理された閉鎖環境ではない。剥き出しになった自然に絶えず晒されている――と、<研究所>の人間には感じられた。舗装された道路の上で、立ち並ぶ鉄筋のビルに囲まれて。
 この世界の環境は予測不能。そこに、そこはかとない恐怖を感じていた。それを振り払うため――彼女はクイゴの言葉を思い返す。
“本当に未開の地に往くわけではない。そこもまた、言葉の通じる別の場所なのだから――”
 それを体現するように、ひとりのオスが彼女の前で立ち止まる。
「もしもし、大丈夫ですか?」
 彼が纏うのは、白衣ではなく黒衣。だが、異様に肩が張っており、事あるごとに動きにくそうだ。ミハルは知識としてそれを知っている。<地上>の人間たちは、それを着用して労働に勤しむのだ、と。

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