私にはもう、どうすることもできない。
 前に進むことも許されず、かといって戻ることもできない。
 今はまだ大丈夫かもしれないけれど、母さんにもすぐにバレることだろう。けれども、そうでもしないと……学校に私の居場所はない。
 家では叱られ、教室では馬鹿にされ――私は、どこで生き方を間違えてしまったのだろう。
 そもそも、生まれるべき場所を間違えたのかもしれない。
 時代を間違えたのかもしれない。
 ともかく……
 ここにいるべき者ではない、ということだけは解る。
 このまま生きていても幸せになどなれない、ということだけは解る。
 ならば――
 私は静かに、屋上の扉を押し開ける。放課後だけに、誰もいない。
 転落防止の高い金網。これだけしっかりと囲っていれば、誤って落ちることはなさそうだ。但し――確信的に落ちようとするのであれば、その限りではない。
 旅立つにあたり、上履きを脱いできちんと揃える。新たな命に生まれ変わる際に失礼のないように。
 次も、人間だろうか。
 それとも、異なる獣だろうか。
 どのような姿になるかは判らない――が、今よりは幸せになれるよう願っている。
 私が指で触れているのは、この世とあの世を隔てる境界。
 そしてそれを握りしめた時――私を迎えてくれる天使の足音が聞こえた気がした。

   ***

 関西人――その肩書きに、ある種の固定概念があるのだろう。何故かみんな、私のことを『大阪人』と呼ぶ。生まれも育ちも神戸市である、この私を。
 それは、中学一年生の年度初めのこと。関東に引っ越してきた私は、心機一転生まれ変わろうと気張っていた。そんなところに、出会ったばかりのクラスメイト達から受けた洗礼が、これである。
「ねーねー、関西から来たんでしょ!? 関西弁話してよ!」
「お笑いとか好きなんだよね? 最近は誰が熱い?」
 悪いけど、普通に標準語で喋れるし、バラエティはあまり好きではない。
 だが……
 私は生まれ変わると決めたのだ。
 ここで突っぱねては何も変わらない。
 折角みんながイジってくれているのだから、どうにかして応えないと……!
「せ……せやなぁ……アンチャッタブルとかナウイんとちゃいます?」
 うろ覚えな記憶。
 ベタベタな死語。
 我ながら張り倒したくなるクサいボケではあったのだが……
「……ってぇ、古っ!」
「っつーか、ナウイって! もうお父さんだって言わないよ!」
 これが、思いの外ウケた。
 みんなが私と話して、こんなに笑ってくれている。
 それが嬉しくて……私は熱心にお笑い番組を観るようになった。
 でも……
 やっぱり、私はこの手のやり取りは好きになれない。
 台本通りに進んでいくコントなんかは、お芝居の一環として受け入れられる。だけど、流行りのトーク番組ときたら……誰かを蔑んで笑い者にするなんて、あまり品が良いとは思えない。
 勿論、彼らはプロとしてそれに務めている。対価を貰って、仕事としてピエロを演じている。
 だけど……
「オイオイ、もうデッサンも何もないなぁ」
「これがウチの芸術や! シュールリアリズムやぁっ!!」
 写生大会では、それはもう出鱈目に描いてやった。印象派と呼ばれる作品を予習して、ことごとくとんでもない色彩で。
 わざと、誤る――
 それでみんなが笑ってくれるなら、
 構ってくれるなら、
 私はいくらでも間違えよう。
 本当はこんなの嫌だけど、ツッコミに回るのはやっぱり怖い。
 もう誰も傷つけたくない。
 誰かを踏み台にして笑いを取ったって、いつか、それは何倍にもなって自分自身を傷つける。
 だったら……私ひとりが傷つけばいい。
 私は、対価を貰っている。
 私は、こんなに多くの友達に囲まれている。
 そのためだったら……たった三年間くらい……!

 どうやら、担任教師には『クラスのムードメーカー』として映っていたらしい。常にウケは狙っていたが、授業を掻き乱すようなことはしなかったのが功を奏したようだ。先生からの印象も良く、内申点も標準以上。お陰で、私はそこそこの公立高校に推薦で進学することができた。
 もし、これで受かっていなかったら……と思うとゾッとする。何しろ、周囲からは試験でスベって慌てふためく私を期待されていたのだから。
「いや~……まぁたやらかしちゃいましたわぁ!」
「さすがやってくれるゥ! 倍率1切ってるのに落ちるなんて!」
 ウケ狙いで、私はいくつか一般入試も受けてみた。既に進路は決まっているのだから、完全なる記念受験である。当然、真面目に回答する気はない。私が落ちた様子を見て、みんなとても喜んでくれた。
 そんな笑顔に包まれて、中学校も無事卒業。
 でも……
 こんなお笑いキャラはもうおしまい。
 高校は高校で、また新たなキャラクターを目指していこう。
 今度はあまり無理せず演じられるような……素の自分に近い私を。

 そう……思っていたのだけど……

「アレぇ!? 埋竹まいたけさん同じ高校だったの!?」
「きのッピってねー、すっごい面白キャラなんだよー♪」
 同じ学区内に進学したのだから、元中と出くわすのも当然か。だが、このように紹介されては引くに引けない。それどころか、高校に上がったことで、私へのハードルも更に上がってしまったようだ。
 私のフルネームは埋竹まいたけ雛菊ひなぎく。自分としては下の名前の方が気に入っているのに、みんなマイタケの方に食いついてくる。挙句に付けられた仇名がキノコをもじった“きのッピ”。正直、あまり好きではない。
 なのに、その上――
「ねーねーきのッピ! この髪型どーよ!? 絶対似合うって!」
 目の前に広げられたヘアカタログに、私は心底ゲッソリする。合っているのは名前だけだ。似合う訳がない。こんなことなら、校則が厳しい中学の方がまだマシだった。風紀の緩い高校の所為で、断り文句も見つからない。
 ここで、無難に収めてしまったら、きっとみんなを落胆させてしまう。
 ならば……
 髪なんてまたいくらでも伸びてくる!
 やれるとこまでやってやれ!
「おはようさん、皆の衆! スーパーキノコ人のご登校やでェ!」
 週明け、マッシュルームヘアーの私を見たクラスのみんなは、少し黙った後に……大爆笑。
「……ぶわはははっ! ホントにやったんだ!!」
「さすがきのッピ! 身体張ってるねぇ!」
 人の気も知らずに笑い転げる友人等を見ていると……自分が悲しくなってくる。
 だけど、私にはこれしかない。
 嘲笑わらってもらえなくなったら、きっと誰も私のことを好きでいてくれなくなる。
 だから、今はこれでいい。
 この三年間を乗り切れば……再び知り合いと顔を合わせることはないだろうから。
 何故なら、私は大学へは行けない。
 そんな経済的な余裕、うちにはない。
 高校だって、公立だから許されたようなものだ。
 国立大? こんな中の下の高校から行けるわけがない。
 奨学金? それを返せるほどの企業に就職できるかどうか。
 高卒で就職となると――内申点は欠かせない。中学校ならそこそこ真面目にこなしていれば、それなりの評価が得られたが……高校はあの頃とは違う。かといって、このアホキャラは崩せない。だから、授業ではあえて失態を披露しつつ、試験では密かにそれなりの好成績を残していた。

 とはいえ……私だって本当に失敗することもある。
 最初の一年間は無難に過ごし、次なる二年目の二学期のこと――
「ね、ねぇ……きのッピ……何点だった?」
 世界史の授業が終わったところで、野村さんがおずおずと話しかけてきた。彼女は、下手に笑わせると咽て倒れてしまいそうなほどに儚げで、見ているだけで心配になってくるタイプである。
 そんな彼女ではあるが……今日はいつも以上に元気がない。もしかすると、さっき返却された小テストの結果が思わしくなかったのだろうか。
 いつもは、点数を聞かれても恥じる演技で答えることはなかった。答えなくても、みんな察してくれたから。察したつもりになってくれていたから。
 だけど今回は……私としたことが、回答欄を間違えるなんて……!
 記号問題ばかりだったから、気づくのが遅れてしまった。途中で不覚にも一問飛ばしてしまったようで、そこから先はズルズルと。
 最終問題を解いたにも関わらず残る空欄。
 ここでようやく慌てて直し始めるも――時既に遅し。
 多少は立て直したにせよ、我ながらこの点数は酷すぎる。
 更に、ムカつくことに語呂が良い。
 それで、つい自虐ネタのつもりで答案を見せつけてしまった。
「どやっ! ゴーゴーや! ゴーゴー行くでぇ!」
 そんな点数でどこへ行く気や! ……ってツッコミを期待していたのだけど……野村さんの顔色はみるみる曇っていく。
「え……私、きのッピより低い……」
 そんな顔されると……私が何かとんでもなく酷いことをした気がしてくる。確かに、試験の点数は酷いけど……って言ったら悪いか。野村さんは私より悪いみたいだから。
 だけど、この得点は私が思っていた以上に悪かったらしい。
「埋竹さん、貴女、授業で先生が仰っていた平均点、聞いてなかったの?」
 ここで割って入ってきたのは雨弓あまゆみさん。学級委員だ。
 友達は多い私でも、どうもとっつき難くて、あまり親しい間柄とはいえない。むしろ、彼女と親しい人ってクラスにいるのだろうか。誰かと話しているところは滅多に見ない。
 滅多に、というのは――彼女が学級委員だからである。学級委員として務める時のみ、彼女は同級生に話しかける。
 だから、こうして話しかけられても、待っているのは……良くて、事務連絡。悪くて……お説教か。
「平均点……ねぇ……。いやぁ、歳を取ると耳が遠ぉなってなぁ……」
 ヨボヨボと腰を屈めてみせたものの……そんなの、ちゃんと覚えてる。五二点とのことだ。別段いつもと大差ない。それなのに、この体たらくである。だからこそ、私だっておどけながらも悔しい思いを噛み締めているのだ。
 そんな私に対して、雨弓さんは容赦がない。
「五二点よ。つまり……偏りを加味しなければ、クラスの半分は貴女よりも低いってことになるの」
 そんな当たり前のことを言われても困る。ボケは私に任せておけばいいのに。学級委員が相手ではおいそれとツッコむこともできない。
 広がらない会話に四苦八苦していたが……事態は取り返しの付かないことになりつつあった。
「ふ……ふぇ……えぇ……」
 野村さん!? そんな……泣くほどのことなの!? むしろ泣きたいのはこっちだというのに!
 困り果てて、私は辺りを見回してみる。だけど、誰も助けてくれない。いつも傍にいてくれた友人達も、こんな時に限って遠くから眺めているだけだ。
 そこに、雨弓さんが物凄い角度から切り込んでくる。
「謝って」
 何故!?
「貴女、野村さんを傷つけたのよ。謝りなさい!」
 どうしてこんなことに……!? 私はただ、点数を訊かれて、答えただけだ。それに、別段高得点でもない。それとも……私は常に最下位でなければならないとでも言うの!?
 だがそれで、何だかみんなの視線が冷たい理由が解った気がする。きっと、クラスの半分を敵に回してしまったのだ。私より点数が低かった人は、野村さんほどでないにせよ、良い心証を抱いていないのだろう。
 これはもう、傷口が広がる前に謝るしかない。また、昔のような嫌われ者に戻る前に。
 但し、自分のキャラは守ったまま。
「えろぅすんませんでしたー!」
 私は椅子から飛び上がり、そのまま土下座の姿勢で着地。
 ジャンピング土下座である。
 スカートも押さえずに全力で跳ねたので、完全に捲り上がってしまったが、下着が見える心配はない。中にジャージを穿いているから。常に笑いを狙っていく身としての最低限のガードである。
 ここまでしたのだから……せめて誰かいつもノリでツッコミを入れて! そしたら、またいつもの空気に戻ってくれる……! そう期待していたのだけど――
「ううん、大丈夫。私がもっと頑張れば良かったんだから……」
 貴女は大丈夫でも、私が大丈夫じゃない。第一、野村さんの点数は全て野村さん自身の問題だ。私は何ら関与していない。
 だからこそ、私は誰かにツッコんで欲しかった。そこまですることやないがな! ……って。誰かに私の罪を否定して欲しかった。
 それなのに……
「野村さん、気にすることないよ……。次は頑張ろうね」
「ほら、きのッピも反省してるみたいだし」
 慰められるのは野村さんばかり。これでは起き上がるタイミングも掴めない。
 と思っていたのだけど……

 キーンコーン……

 授業の鐘が鳴ったことで、みんなバラバラと自分の席へと帰っていく。それに混じって、私も顔を上げた。
 そこに……
「埋竹さん、今日の放課後、ちょっと残ってくれる?」
 学級委員からいきなり予定を割り込まれてしまった。
「え、でも、今日はますやんと……」
 駅前に寄っていこう、という先約が入っている。
 どうしたものかと振り向くと、彼女の席は二列先。呼びかけるまでもなく声は届いていたようだ。
「まー……学級委員様直々じゃあねぇ……先に行って待ってるよ」
 雨弓さんが私的な用件を捩じ込んでくるとも思えない。委員会としてのお仕事であれば、断る方が後々面倒なことになりそうだ。
「ほな、いつものマクドで合流なー」
 とスケジュール調整も終えたところで、私は改めて雨弓さんの方へと向き直る。
「っつーことでして……手短によろしゅう……」
 会釈をしながら、怪しい揉み手。学級委員相手とはいえ、同級生に対してどうしてここまで卑屈に接しなくてはならないのか。それは、自分でも解らない。
「早く済むかは、貴女次第よ」
 言うだけ言うと、彼女もまた戻っていく。一体何をやらされるのか見当もつかないが……ロクなことにはならなそうだ。

 今週の掃除当番は化学室。放課後まで世界史の件を引っ張る人はさすがにいない。いつも通りに和気藹々と大雑把にやるべきことを済ませてゆく。
 そして、いつも通りに解散。部活に向かう人もいれば、そのまま昇降口へと下りていく人もいる。きっと、私がこの後呼び出されていることを覚えている人はいないだろう。
 さっさと所用を終わらせるために、私は早々に教室に戻ってきた。覗いてみると……残っているのは、私を除けば二人だけ。
 一人は――当然、雨弓さん。学級委員だから。
 そして、もう一人も学級委員。但し、男子の。
「おんやおやぁ、友南ともなみ君まで出張るたぁ……一体全体何事でっしゃろ?」
 これに、一瞥をくれたのは雨弓さんだけ。友南君は我関せず、といった様子で平常運転。切れ長の瞳を眼鏡に映し、黙々と文庫本を読み耽っている。
 雨弓さんも雨弓さんで他人と話しているのを殆ど見たことがないけれど、それは友南君も似たようなもの。本を読んでいるか、外を眺めているか……スマホを触っているところすら見たことがない。
 ある意味、お似合いの二人である。
「じゃ、貴女は自分の席に座ってくれる? 私は浅間さんの椅子を借りるから」
 そう言って雨弓さんは立ち上がるが、友南君に動く気配はない。本当に、何のために残っているのやら。
 こちらに向かう彼女の手には一枚のプリント。それが、今回の用件のようだ。
「これ、書いてくれる? 提出したら帰っていいから」
 一つ前の座席に腰を下ろしつつ私の机に置いたのは、罫線で枠が組まれた記入用紙だった。
 しかし。
 印字された表題に、私は愕然とする。
「イ……<イジメ反省文>……?」
 あの世界史の件が関わっているとは思っていたが……ここまで徹底的にやることか!?
 しかも、提出したら帰っていい――逆を言えば、提出するまで帰れない、ということである。
 野村さんを泣かせてしまったのだから、私に非があるのかもしれない。
 だとしても……
「や……いやぁ……初めてのことで何が何やら……」
 あの件について、何をどう反省すればいいのか、最初の一筆にすら手を付けられない。
 困り果てて戸惑う私に、雨弓さんは最初の指示を下す。
「『分類』は、誹謗中傷」
「誹謗……!?」
 点数を訊かれて、答えただけ。キャラ作りのために多少は威勢良く立ち回ってみたものの……そこまで責められることなのだろうか。
 まったく得心はいかないものの、私は雨弓さんに言われたとおりに書かねば帰れない。
 続く『詳細』は、試験の点数において、自分より低い人を罵倒してしまったこと、らしいのだけど……
「な、なぁ……ウチ、野村はんの点数、知らんのやけど……」
 その時点で、この『詳細』は成り立たない。
 しかし、雨弓さんは呆れて首を横に振る。まるで、反省の色が見られない、と言いたげに。
「あのねぇ……平均点以上ってことは、五割の確率で自分より低いと思いなさい!」
「何やてェ!?」
 そこまで察して返答しなきゃいけないの!?
 驚く私をため息一つであしらうと、雨弓さんは最後の『反省内容』に関する記載を勝手に定めていく。
「で――今後は、自分より点数の低い人を侮辱しないこと……いいわね?」
「侮辱!?」
 点数を訊かれて、それに答えた。
 たった一言の短い会話。その中で――
 誹謗中傷。
 罵倒。
 侮辱。
 ――一体どれほどの罪を犯したというのか。
「もうウチ……二度と試験結果は口外せぇへん……」
「なら、それも書き加えて」
 サラリと言ってのけるが、言われた方は散々だ。それも、二対一。学級委員二人に対して容疑者一人。何を言っても通じる気がしない。
 とはいえ、友南君は今でも黙って何かの本を読んでくれている。糾弾に加わる気がなさそうなのが唯一の救いか。
 もし、二人がかりで圧を掛けられていたら……心が折れて、学校に来れなくなっていたかもしれない。
 私は、過去に犯した本当の罪を思い出す。これは……その報いなのかもしれない。勿論、この程度のことで許されるとは思っていないけど……。
 私は言われるがままにペンを引き摺ってゆく。そして、最後まで書き上げた時――何のために友南君が残っていたのかようやく判った。
 学級委員の署名欄が、二箇所。各クラスには男女一名ずつの学級委員がいる。ここに記入するために、彼は残っていたのだろう。尋問に加わるつもりがないのなら、先に名前だけ書いて帰ればいいのに。
 それも、どうでも良いことか。適当に済ませて私も帰ろう。ますやん達も待っているだろうし、何よりすっかり疲れてしまった。
「これでー……ええかいな」
 彼女の目の前で、彼女の言うとおりに書いたのだから、これで不満があるはずがない。
「そうね。……これに懲りたら、浮かれて成果を開かすのは控えなさい」
 自虐話のつもりでも、相手によっては自慢話――ある意味、良い勉強になったといえよう。
 雨弓さんは紙面の上下をくるりと反転させると、自分の署名欄にサラっと記す。書類がこちらの手から離れたのなら、私はもう不要だろう。
「ほなサイナラ~……」
 重い腰をふらつかせながら、私は教室を後にする。
「それじゃ、友南君も書いて。そしたら職員室に寄って帰りましょ」
 まあ随分と仲の良いこと。私のことなどすっかり眼中にないようだ。もしかすると、友南君も一緒に下校するために待っていたのかもしれない。二人で宜しくしていればいいわ。
 そして、これだけ疲れさせておきながら……彼女からは別れの挨拶の一つもなかった。

 しかし、私の受難はまだまだ続く。
「うーん……私もねぇ……アレはどーかと思ったよー……」
 マクドで憂さを晴らそうとしたものの、ますやんからの同意はナシ。
 それどころか、同席していたトッピーまで学級委員と似たようなことを言い出す始末。
「私さー……四八点だったんだよー……。まさか、きのッピに負けてるとは思わなかったわ」
 やるねぇやるねぇ、と褒めてくれるけど……迂闊に喜んではまた傷つけてしまう。
「偶然偶然。そゆこともありまっさー」
 周りには“好成績”として映っているようだから、謙虚に受け取っておくべきか。
 一方――
「まっ、私は七〇超えてるけどねっ!」
 ここぞとばかりに鼻を高くするますやん。でも、トッピーにヘコんだ様子はない。
「さすがだよねぇ……ますやん、世界史とかよく覚えられるわ」
 ここまで扱いが違う理由がわからないのだけど……ここは私もノッておこう。
「よっ、さすがインテリメガネ! 伊達じゃないねぇコノコノっ!」
 肘でちょいちょいと突っついてやると、ますやんも嬉しそうに突き返してくれる。
「でもさー、あの点数であの喜びようだもんねぇ、きのッピ。普段どんだけ酷いんよ」
 こんなに楽しそうな彼女を前に……そんなこと言える訳がない。
「堪忍してェな。試験の点数は喋ったらアカン、って学級委員の前で誓いを立ててもォたわ~」
 必要以上に重たい言葉選びに、二人の頬も少なからず綻ぶ。
「いやいや、悪い時はゆってもいいんだぜ?」
「そうそう、それでこそきのッピだしね~♪」
 だからこそ、みんなの前では絶対に言えない。普段、六〇点どころか――七〇点台だって滅多に取ることはないなんて……

       ***

 学業と人間関係――その狭間で、私は中間試験と向き合うこととなった。
 前の席から送られてきた世界史の問題用紙。
 小テストの失点を挽回すべく、それ相応に対策はしてきた。
 でも……

 問:フランク王国がウマイヤ朝を退けた戦いの名称を答えよ。
 答:山越え火事場泥棒

 ――設問を前に、思い出されるのはみんなからの冷たい視線……

 問:その時のフランク王の名を答えよ。
 答:大怪獣アラビアン行き

 ――私が正答を書くと、誤答を書いた人を悲しませてしまう……!

 問:この戦いの後、ブルゴーニュに復活させた国家の名称を答えよ。

 ここは……支配したピピンに焦点を合わすべきか、イスラム圏侵攻のための前線基地としての役割を押すか……
 ここで鳴り響く終了のチャイム。
 世界史の試験はここまでだ。
 私は、この五〇分間真剣だった。
 しかし……
 その方向はあまりに間違っていた。

 午前いっぱいで試験は終わり。
 とはいえ、まだ初日だ。
 二日目のことを考えれば、これから遊びに行こうとする者もいない。
 早々に空っぽになった教室で、私は――
「う……うぅ……くぅ……」
 試験中、私は大真面目に考えていた。
 どうすれば、みんなを笑顔にできるか……
 どうすれば、誰も泣かせないか……
 だけど……これじゃ……これじゃあ……!
 私……怖い……
 正答を書くのが……怖い……!
 笑えない答えを書いたところで、誰一人として喜んでくれない。
 だからといって、あんな巫山戯ふざけた回答……!
 みんなには喜んでもらえるかもしれない。
 だけど、先生は――呆れて零点をくれればまだマシだ。
 激怒して、母さんが呼び出されて、三者面談――なんてことになったら……私は……!

 もしかすると、既に自宅に連絡がいってるかもしれない。
 怖くて、家にも帰れない。
 そうまでして私が守っているものは……笑い者の人生。
 だけど、笑わせないと、誰も私を見てくれない。
 笑われないと、私に存在価値なんて微塵もない。
 でも、笑われるしかない未来なんて……欲しくない……

 そろそろ、潮時か。
 きっと、私は間違えてしまったのだろう。
 そしてそれは、もう取り返しもつかない。
 この先もきっと、こんなことが続いていく。
 試験を落として、成績を落としたら、相応のところにしか勤められない。
 そこでも笑いを取るためにわざと失敗して、怒られて、クビになって……
 こんなアホ女と結婚したい、なんて思う男がいるはずもない。仮にいたとして……それに応えられるとも思えない。家でも、外でも、四六時中こんなことを続けていたら、私の頭は本当におかしくなってしまう!

 もし、次に生まれる時も人間だったら、飾ることなく笑顔を振りまける子になりたい。
 心から、みんなを笑わせて、喜べる人になりたい。
 みんなから、慕われる人になりたい……!

 どうせ家には帰れないのだ。
 ならば、と私は昇降口とは逆――屋上へと向かってゆく。
 試験期間中の静かな階段をヒタヒタと上がると、すぐに最上階に辿り着いた。
 狭い階段室の扉を開けると、青い空が開けている。
 世界はこんなに広いのに、私の居場所はどこにもない。
 四階建ての屋上から、コンクリートの地上階へ――きっと、大丈夫。痛いのは、一瞬だけだから。
 もう少し怖いかな、とも思っていたけど、そんなことは全然ない。
 これから続く救われない日々と比べたら……こんなの、全然大したことはない。
 フェンスはただ、高いだけ。有刺鉄線のようなものもない。
 上履きを脱ぎ、絶望から逃れるために足を掛けたところで――

 ガチャリ。

 こんな時間に屋上に用がある人がいるとは思わなかった。
 扉が開かれては、無視することもできない。
 誰がやってきたのかと、振り向いてぼんやり鉄の戸板を眺めていると、そこから現れたのは、人より先に――スマホ? それも自撮り棒に括りつけられている。
 柄はどんどん伸びてきて、それを握る手が現れた。
 が、次に覗くのは足より先に――

 ――!?

 扉の縁からくすんだ桃色が一瞬だけ覗く。見慣れぬソレが何なのか、その時は判らなかった。
 しかし……短パンでも穿いているかのような脛と、半袖でも着ているような腕――それらを覆っているはずの制服が、いつになっても見えてこない。
 そしてそれは、腿と肩が顕になっても――なお。

 ゴトン。

 スマホが落ちた。

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